今でもその傷が熱をもち、痛んでいる気がる。

 

 でも…その痛みは、私の一部。

 

 あの頃の私を苛んだ痛みも、今では私自身となっている。

 

 

 

 

                          ――とある者達の書いた手記の一部より抜粋

 

 

 

 

 

 

 第五話 耐えられぬ痛みなど

 

 まったく、おれに一芝居やれってのかよ…。

 

 面倒だが、やらないといけないよな…。

                    

 勝手に居座ってる居候的な存在としては…。

 

「さて…どーしようかね?」

「…どうして躊躇うのだ?」

 アプリコットの部屋の前に来て、クレアがボソッと言った。

 隣でナノナノが首を傾げている。クレアの台詞の意味が分からなかったらしい。

 クレア一人だと何するか分からないという三人の意見により、アプリコットへの荒療治にはナノナノを同伴することを決められた。

 クレアに対する警戒心を隠し切れない三人では、空気がギクシャクすること確定だということで、ナノナノになったらしい。

 二人きりだと、何があっても他の人間には分からないから、ナノナノを同伴させるんだと三人は言ったが。

「別にリコを獲って食ったり、襲ったりとかしないよ」

 そういって本人は苦笑を浮かべていた。こっそり心の中で、やっぱまだ信用してくれるわけないかーとぼやいたりもしたが。

  とはいえ、三人は近くはないが遠くも無い距離を置き、こちらを見ている。

「んー…だってさ、あの子、アタシのこと嫌ってるし」

 苦笑いしながら言う。

 何故嫌ってるのか、大方の予想はついている。

「まあ、分かるんだけどね…。けど、ま、当たって砕けろ。いざって時は持久戦」

 よく分からないことを言いながら、呼び鈴を鳴らす。

 だが、幾ら待ってもドアが開く気配は無い。

留守、ということは無い。あの日以来、よほどのことが無い限りアプリコットが部屋にいるのは、誰もが知っている。

今は誰とも会いたくないということか、それとも呼び鈴を鳴らしたのがクレアだと本能的に悟ったのか。

 こりゃ持久戦突入かな?

 心の中でそう呟くのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。

「ありゃ…意外だね」

 心底意外そうに、クレアは言った。

 

 

 

 

「ありゃ…意外だね」

 その言葉が、少しだけ癇に障った。が、それを表情に出さずにアプリコットは黙ったまま、クレアとナノナノを部屋に招いた。

 どうしてそうしようと思ったのか、自分でも分からない。

 今だって金色の瞳は何から何まで見透かしているような気がするし、目を合わせたくないと思う。

 目が合うたびに、零れ落ちてゆく記憶の欠片。もう何一つとして零したくないから。

 でも、どこかで誰かが囁いている。

 悪い奴じゃないから。何もかも、ぶちまけてもいい。

 誰が、何処で言っているのか分からない。

 けど、不思議と抗う気を起こさせない…胸にじんわりと染み渡るような、声。

 とても懐かしくて…温かな感じのする男の声だった。

「…こういうのって、どうやって切り出すべきか迷うよねー」

 少しだけ苦い笑みを浮かべて、でも、躊躇うことなくクレアは話を切り出した。

 

 

「痛い?」

 

 

 それが、どんな意味で問われたのか、少しの間分からなかった。

「傷口…まだ痛む?」

 再び問いかけられる。しかし少し考えれば誰でも分かることだと、ようやく理解した。

 外傷なんて一つとしてない。傷跡が幾つか残されているけれど、それは痛みを持っていない。

 今もなお熱をもち、じくじくと痛み続ける唯一つの傷。

 黙ったまま、コクリと頷く。

「そうだよね、やっぱ…。傷が塞がるわけ、ないよね」

 再び苦笑を浮かべるクレア。

 その痛みがどれほどのものか、自分も知っている。苦笑いの下で、そう言っているような気がした。

 クレアはアプリコットより長く生きているから、似たような痛みを感じていることは何度もあったのではないか?

 今まで考えようとしなかったけれど、相棒が生死不明だという彼女も同じ痛みを感じているのだろうか…。

「でもさ…」

 そう言って、一回だけ大きく息を吸い…続ける。

 アプリコットの思考を中断させたいがため…そのように感じる。

 

 

「耐えられない痛みなんて、この世界には無いよ?」

 

 

 堂々と…揺るぐことのない、確固とした自信をもってそう告げられた。

 何一つ言い返すことを許さない…絶対の言葉。

 過ごした年月と、幾多もの経験によって裏打ちされた説得力の重み。

「君の痛みは、君だけのもの。だから、アタシには分からないよ?」

 急に、部屋の時間が止まったような気がした。

 いや…止まったわけではない。

 止まったと錯覚するほどに、緩やかに流れているだけだ。

 しかし、そんな緩やかな時間の流れの中にいても、クレアは自らのペースを崩さず…穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「でもね、その痛みはいずれ君自身になる。君の一部になって、血肉になる。緩やかに…とても、緩やかに、ね。

 

流れてゆく時間の中で君にとっての彼の記憶も、存在も、いずれ君自身になって、彼という個性は消える。

 

そうして、彼が君となった時…、君の痛みは消える。君を苛み続ける傷は、塞がって、無くなる」

 

 どうしてかは分からないけれど…その言葉は、乾いた砂漠に水を落とすかのように…乾ききった心に浸透してゆく。

 優しい何かに包まれるかのような…静かな、安堵感。

 そのまま受け入れてしまえば、楽になれる気がしたけれど…それに反する意思があった。

 その意思が、動こうとしない唇を動かし、喉を動かし、言葉を外へと送り出す。

「それは…忘れろ、ということですか?」

 そう言うことで、放棄しかけた思考が元の形を取り戻し始める。

 異様なほどに緩慢に感じていた時間の流れが、元の速さで流れ出す。

 それは、決して許せないこと。

 他の誰もが忘れても…私は彼のことを忘れたくない。

 いや…忘れられるわけが…無い。

「…そだね。捉え方によっては、そう聞こえるかもしれない。けどね、アタシは君に忘れろと言ったつもりはない」

「じゃあ、どういう意味で言ったのだ?」

 割って入った幼さを残す声に、二人とも一瞬だけ驚く。

 が、ナノナノがもとから居たことを思い出す。どうにも自分達のことに集中しすぎていたらしい。

 ゆっくりと息を吸って…大きく吐き出し、クレアは口を開く。

 そして、再び時の流れが緩慢なものとなり。

 

「死んだ人は、生きている人の思い出の中にしか居場所を見出せない。彼は君の思い出の中にしか、居場所を見出せない。

 

 耳を澄ませれば、聞こえるはずだよ? 今もなお…彷徨い続け、君の側に留まる彼の声が、ね。

 

 その声に耳を傾けて…、彷徨い続ける彼を探しなさい。そうして…彼の残したもの全てを受け入れれば、いい。

 

 混ざり合った個性が、いずれ何かを見出すその時まで…定まらない個性を持ったまま」

 

 先ほどと変わらずに、緩やかに言葉を紡ぐ。

 まるで、詩を朗読するかのように…その声は響き渡る。

 その言葉の意味の半分も、分からない。何をすればいいのかも、まだ分からない。

 けど…もしも、今でもずっと…彼がすぐ側で、彷徨い続けているというのなら…。

 

 

 

 

 ほんの僅かだけれど、付きまとう闇が消えた。

 それを確認して、普段どおりの笑みをクレアは浮かべる。

「本当に耐えられない痛みってのはね、死ぬことだよ。死の痛みなんて、他の痛みと比べることも出来ない」

 ちらりと、横目でナノナノを見るクレア。

 その目は、何を…何処を見ているのだろうか…?

「それに比べたら、どんな痛みだって耐えられる…それを知っているのなら」

「…クレアは知ってるのだ?」

 首を傾げながら尋ねるナノナノ。あ、かわいいなーと思いながら、くしゃくしゃと頭を撫でてあげながら、それに答える。

 自分は何度と無く死に掛けた。何度も親しい者の死を見届けた。

「知ってるよ」

 だから、死ぬことの痛みを嫌というほど知っている。だけど、死ぬことの痛みを知っているのはクレアだけじゃなくて。

「あの少年が君を選んだとき、確定する事象…その時、君は君が出来る最善を尽くす。それは、誰にも真似できない尊いこと」

「…?」

「その痛みが、少年となる前に君は君として再びこの世界に舞い降りた。アタシは…それを知ってる」

 なんて言っているのか分からない、そんな顔。

 だけど、クレアは笑ったままで、その言葉の解説などしない。

「…まあ、ここではないどこかでのこと…、アタシの戯言だよ、うん」

 知らなくていいことは多い。

 そして、それを知らずに一生を終えることがどれほど幸福なのか、それもまた知らなくていい。

「生きるってのは、苦痛で…凄く辛い。まして…心許す人を失ってしまったというのなら」

 

 だけどね。そう前置きして…どこか厳かに続ける。

 

 

「…だけど、あなたは生きなさい、彼のため、誰かのために」

 

 

 

 

 

 

 

 

「…リコたん、これで大丈夫なのだ?」

 後ろを振り返りながら、心配そうにナノナノが呟くのをクレアは聞き逃さなかった。

 けど、ナノナノがそう思うのも無理は無いと思う。

 あの日以来ずっと…痛み続けてきた傷を、そうそう簡単に癒せるわけなど…ない。

「…まあ、強制措置も取ったし…とはいえ、アタシがしたのは切欠を与えただけなんだよね」

 荒療治、と言っていたのでてっきり殴ったりするのかと思っていたかもしれない。

 確かに相手が男なら、殴る蹴るの問答無用の荒療治をした。

 が、今回は同性、ましてまだ大人と呼べる歳ではない…少女と呼べる相手だから。

「穏便に終わらせたかったからねー…簡単に引っかかってくれて助かったわ」

「…クレアはいったい何をしたのだ?」

 どうにも不穏当なセリフが混じっている。だが、あの場に同席していたナノナノは、クレアが何か特別なことをしたようには見えなかった。

「そーだね…特に何もしてないよ? あえて言うなら、言葉に宿る本当の力を使っただけ、かな」

「???」

「まあ…今はそっとしておいてあげよう? 自分で決めないと、意味が無いからね」

 本当は、全て自らの力だけで気が付いて欲しかったけれど。

「…あのままだと、手遅れになってたろうだろうから、ね…」

 そこへ、待機していたアニス達がやってきた。一直線にやってきて、開口一番に。

「どうだった?」

 と至極真剣な…しかし、どこか脅しも含んだ表情でクレアに問い詰めた。

 それはアニスだけでなく、リリィ、カルーアもだが。

「…切欠は与えたから、後は自分で、ね」

「…そうか。にしても…つくづく自分が情けないって思うぜ」

「どーして?」

「だってよ、仲間一人助けてやれないなんて…」

「そんなこと無いよ」

 言い終えるより先に、クレアがアニスの言葉を遮った。

 アニスから視線をずらし、とある人物に向ける。

「君がとても深い傷を負ったとき、アニス達は何もしてあげられなかった。そして、傷口は少しずつ腐り始めて、もう手遅れになった」

「…なんのことだ?」

 視線を向けた人物からの疑問に答えることなく、クレアは続ける。

「それを君たちは学んでる。君たちが覚えていなくても、ね」

「…?」

「もしも…君が、後戻りできない場所にまで踏み込むことになったら、その時教えてあげるかもね…」

 

 

 

 

 閉ざした瞼の裏に浮かぶのは、何時だって優しげな笑顔。

 時々カッコ悪いことだってあったけど、一緒に過ごした時間は…何にも代えられない大切なもの。

 だから、今こうしているのが悪夢にしか思えない。

 本当は、とても長い夢を見ているだけなんじゃないかって思うことがある。

 とても長くて…とても辛い夢を。

 どこかに頭をぶつけたりとかして…ずっと意識が戻らなくって。

 それで、やっと目を覚まして…医務室の天井が目に入って…隣に、隣に…。

 

 …だけど、ちゃんと理解している。これが夢ではなく現実だと。

 もう、彼はこの世界の何処にも居ないんだって…。

 何もしてあげられなかった。何も出来なかった。何も言うことが出来なかった。

 もしかしたら、本当はとても傷つけてたんじゃないかって思うことがあるから。

 それを謝ることはもう出来ないけれど。

 それでも…これだけは、伝えたかった。

 

 こんな私に優しくしてくれて…ありがとう。

 

 こんな私を好きになってくれて…ありがとう。

 

 あなたが死んだ時…本当に悲しくて、心が引き裂かれそうだった。

 

 だから、どうしてあなたを好きになったんだろうって…。

 

 好きにならなかったら、こんなに苦しまなくてよかったって…。

 

 そんな風に思ってしまって、ごめんなさい。

 

 あなたに会えてよかった。

 

 あなたを好きになってよかった。

 

 この痛みも…あなたが好きだっていう何よりの証。

 

「…………っ!」

 脳裏を駆け巡る、彼が居た時間…輝いていた日々。

 

 

「落ち着いて、リコ。ミルフィーさんはきっと大丈夫だよ」

 

「どうしてもリコに髪飾りをプレゼントしたくなっちゃったんだ」

 

「まだまだいっぱいあるんだ。急いでまわらないとね」

 

「ごめん! なんでもない!」

 

「リコォ!!!」

 

「僕と一緒に!! 休暇を過ごしてくれないか!?」

 

「はじめに渡す予定だったんだけど…。えへへへ…」

 

「か、かわいいね…。その…。よ、よく似合ってるよ…」

 

「し、死んじゃう…、前に…ひとこと…、言わせ…、てよ…」

 

「どうせバカですよ…」

 

 

 脳裏を駆け巡る、多くの言葉、多くの光景。

 今なお、色あせることなく鮮明に…そして、突き刺さるような痛みと共に思い出せる。

 少し照れた笑顔が、とても嬉しかった。

 本気で怒った時の表情が、とても頼もしく見えた。

 悲しげな顔が、とても痛ましかった。

 

 苦しげに歪む顔を…見ていられなかった。

 

「あ…あぁ…」

 喉の奥から漏れる嗚咽ともつかぬ声。

 それは、唐突にあの時の記憶が甦ったから。

 彼の最期の瞬間…なんと言っていたのか、聞こえなかったわけではない。

 聞こうとしていなかっただけで…聞こえていた。

 死んでしまうというのに…あまりにも穏やかで、何も恐れていないと言いたげな顔で。

 

 

「僕の分まで、生きて…笑っていてね。皆のためにも…」

 

 

「あああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 嘆くように…悲しみの叫びが喉から漏れる。

 次から次へと…枯れた涙が溢れて、頬を伝い落ちてゆく。

 それは彼女の悔恨が形となって、あふれ出したもの。

 

 どうして今までその言葉を忘れていたのか。

 

どうして今まで悲しみにくれていただけだったのか。

 

 どうして今まで彼の最後の願いを汲み取ろうとしなかったのか。

 

「うぅ…ぁっ…」

 それからずっと…アプリコットは泣き続けた。

 涙が枯れるまで…ずっと、ずっと…。

 クレアの言った言葉が…カズヤの最後の言葉が、混ざって…ぐちゃぐちゃになって。

 

 あなたは生きなさい/僕の分まで生きて…

 

 彼のため、誰かのために/笑っていてね、皆のためにも…

 

「ごめんなさい…ごめんなさい…!」

 その謝罪の言葉は…誰に向けられたものだったのだろうか…。

「…もう…泣かない、から…」

 泣くのは…これで終わりにしよう。

 そして…探そう。彼の残したものを。彼が私にくれた全ての想いを。

 それを全部見つけて…受け入れよう、何もかも。

 彼が生きていたことも、死んでしまったことも、たくさんの思い出をくれたことも、それから…それから…。

「…あ、うわぁぁぁぁぁぁぁっ…!!」

 だから…今だけは…泣かせてほしい。

 零れ落ちる涙は、昨日までの自分。何時までもそこに留まって、ずっと俯いていた自分。

 だから、全部ここに置いていこう。

 今から踏み出す、新たな一歩のために…。

 

 

 …ああ。今のうちに…泣けるだけ泣いておくといい。

 

 もうすぐ…おれも、お前から出て行くから、な。

 

 そしたら…あの少年が居ないけど、前と同じ日々に戻れるから、な…

 

 

 

 

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