第十四話 尽きる命

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが間違いだった。

 

 

 

 

 “もしも…あの時、アタシが別の行動を取っていれば…”

 

 

 

 

 僅かなりとも、結果は違っていたのかもしれない…。

 

 

 

 

「っと…何の小細工なのかなぁ?」

 クレアを捕らえるかのように展開した魔方陣。

 逃げられそうにもないな…。自分を拘束し、破壊しようとする力に抵抗しながら、そんなことを考えていた。

 骨折などの負傷が無ければ簡単に脱出出来るのだけれども…今の彼女には、それが出来なかった。

 だから…それが、最後の間違いとなった。

 一つ目は前提条件、もしも負傷していなければ。

思っていた以上にダメージはあったようで…上手く全身に力を巡らせることが出来ない。

だからこそ、この網から逃れるほどの強い抗魔力を生み出せない。

二つ目はそれに気が付かなかったこと。

気が付いていれば、魔方陣が展開されるより早く、逃げ出すと言う選択があった。

だが気が付かなかったから…。

三つ目、すなわち最後。それは、赤眼の青年の考えを見抜けなかったこと。

 長い付き合いだが、相手の考えていることを完全に読み切れているわけではない。

 そして仲間達への注意が足りなかったこと。償おうと思っていながら、どうしてもそこまで気を使えなかった。

 それが…過ぎ去ったはずの悲劇を、再び生む…。

 

 

「サンキュ。助かったぜ、ナノ」

「どういたしまして、なのだ」

 何度も繰り返されてきたやり取り。

 だけど、こうして交わす最後のやり取りになるなど…誰が想像したか。

 

 

 赤眼の青年の周囲には、二つの光球。一つは水色、一つは橙色。

 水色の光球が弾けて、それは十数本の針へと変化する。

「悪いけど…死んでくれ」

 無作為に放たれたそれは、クレアではなく二機の紋章機へと向かう。

 ちょうど…リペアのために、距離が離れていないから。どちらが狙われたのか咄嗟に判別することも出来ず。

 同時に加速し、その場を離脱。しかし、その時点で結果は…決まっていたのだ。

「…すまないな」

 その声と共に、橙色の光球も弾けて…二条の輝線が一直線に漆黒の闇を切り裂いていく。

 

 

「…しまった!!」

 気が付いた時には、既に遅い。何を間違えたのか一秒で答えを弾き出し舌打ちをする。

 全身を血脈のように循環し続ける、クレアの力の源泉も今は乱れ、まとまらない。

「しかも…オリジナルには及ばないからってアレンジまでするか!?」

 コピーするだけが能ではないと、初めて思い知らされた。

彼は今まで、覚えたものに手を加えず、手数と複数の技の組み合わせを考えて劣化コピーであることを補ってきた。

だが、それに手を加えて別の用途へと使えるようにしたというのは中々。

攻撃ではなく拘束に変化させられているから。

 それゆえに…抜け出せない。だから…防げない。

 

 

「王手かよ!!」

 一瞬だけ思考が凍結して、これが「詰み」だと気付いた瞬間、口から零れたのは、悪態だった。

 狙われたのが自分だと知った瞬間、別の手を打っていれば何とかなったかもしれない。

 目前を切り裂いた輝線、咄嗟に取った回避行動。もしも、それを恐れずに逆に飛び込んでいれば。

 突き抜ける瞬間のみダメージを喰らうのと、まともに全弾喰らうのと…どっちがマシか。

 だけど反射的にやったのは、それではなく。リスクの計算が出来なかった。

 背後に、死神が立っている。そんな幻を一瞬だけ、見た。

「…あれだけカッコつけといて、いきなりリタイアかよ…自分の判断ミスで…」

 ダンッと殴りつけたところで、今更結果は変わらない。

 死ねるか…こんなところで死ねるか!!

 その叫びは…決して声になって外へ出ることは無かった。

 残された時間は僅か、ならばそんな未練を言葉にするのではなく…。

「…絶対に死ぬな!! もし、向こう来る羽目になったら…こっちまでぶっ飛ばしてやるからな!!」

 届かないと分かっていながら、叫んだ。そして、それが…。

 

 

 

 

アニス・アジートという名の人間が、この世界で言った、最後の言葉。

 

 

 

 

 針山に針を刺すように、ザクリザクリと擬似ナノマシン製の針が紅く染まった機体を貫いていく。

 一本、また一本。まるで記録された映像を、スロー再生するかのように。

 世界が色を失い、モノクロになって、音も無くなる。

 …ずっと前に、一度だけ同じ経験をした。

 あの時も、全ての始まりとなった望まぬ別れの時も、世界は色を失っていた。

 動けない。視覚は起きている出来事を把握しているのに、誰も動かない。

 ナノナノも、アプリコットも、クレアも、赤眼の青年も…そして、少年も。

 全ての針が突き刺さった後、それは爆発、離散する。

 劣化コピーのナノマシンだけでなく、RA−005…通称、レリックレイダーも。

 

 

 世界に色と音が戻ると同時に、誰かの嘆きが聞こえた気がする。

 自分の見たことが信じられなくて、でも、それは現実だと。

 アプリコットとナノナノが同時に、慟哭をあげる。

 クレアも、ただ呆然としてしまい…それが三度、悲劇への引き金となったというのに。

 

 

 逸早く感覚を復活させた赤眼の青年は、光球を生み出す。左手に蒼を、右手に紅を。

 先に放ったのは、蒼。再び放たれる光の槍。正確な射撃を得手とする、蒼い紋章機の技。

 今尚、呆然としている彼女にそれは避けられない。

 だから、狙った場所を正確に撃ち抜く。動力源であるクロノ・ストリング・エンジンを掠めて、エネルギーラインを。

 装甲が固いのであれば、何度も撃ち続けるか、数を捨てて一撃の威力に特化させるか。彼は後者を選んだ。

 これで…もう、動けない。そして、赤眼の青年はトドメの一撃を放つ。彼女が親分と慕った人間の駈る、真紅の紋章機の技で。

「…向こうで、仲良く、な…」

 ボールを投げつけるかのように、見る者が見たら惚れ惚れとするような見事なサイドスローで。

 それは光の槍と同じ軌道を描き、紅い光球は吸い込まれるように、飛んで行く。

 

 

「え…………?」

 

 

 その光球が弾けるのと同時に…三度、同じ光景を繰り返した。

 ……きっと、最後の瞬間まで…何が起きたのか分からなかっただろう。

 そのほうが…幸せだったのかも、しれない。

 何が起きたのか自覚して、耐え切れない痛みに苦しむよりも…何も分からずに、苦しまずに死ぬと言うことは…。

 

 

 …誰かが、吠えた。

 

 

 世界そのものを震わせるような、憎しみと悲しみの詰まった咆哮が、全てを轟かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 “他に、もっと良い方法を思いついてれば…”

 

 

 

 

誰も死なずに済んだのでは、無いのだろうか…。

 

 

 

 

 幾つもの黒き剣が迫ってくるのを、ただじっと見ていた。

 やろうとしているのは、無謀にも程がある賭け。勝率は限りなくゼロに近い。だけど、完全にゼロと言うわけではない。

 負ければ死ぬし、例え賭けに勝ったとしても、戦いに勝てる確率はやはり低い。

 もっとも、今は目前のことに集中しなければ。

 ―ギリギリまで、動くな。見極め……、……?

 何が起きたのか、分からなかった。横からドンと押されたのがかろうじて分かった程度で、目に映るものが、分からなかった。

 

 ……いや、本当は分かっていた。

 認めたくないから、分からないと思い込んだだけで。

 それをハッキリと認識していたのだから……。

 

 蒼眼の青年も、その目を見開き…驚愕を隠そうとしなかった。

 肩で息をするどころじゃないくらいに、疲労に蝕まれていた魔女が突然、残った力を振り絞って騎士の身体を突き飛ばした。

 投擲された黒き剣に追尾能力など無い。愚直なほどに真っ直ぐに、軌道を変えることなく。

 進路上に現れた存在の、両腕に、両足に、腹に、胸に、肩に、黒き剣は突き刺さり、それでも勢いを殺すことなく、

 その身体を壁に磔にする。その死に様を…晒し、見せ物とするかのように…。

「…どうして、庇った?」

 そう呟いたのは蒼眼の青年か、それともリリィか…。

 どちらが言ったのか、はたまた二人が同時に言ったのか分からないが。

 全身から滴り落ちる赤い雫の量は、その傷の深さを物語っているというのに。

 それがどれほどの苦痛を生み出しているのか、分からないわけじゃないのに。

 本当に…この状況に不似合いな…穏やかな笑顔で、言った。

 

 

 

 

「……そうですわね〜……、仲間を庇うのに、何か特別な理由って……いらないと思いませんか〜……?」

 

 

 

 

 目の前で、親しい人間に死なれるのは嫌だから。

 誰だってその思いは同じで…。

 そして、遠い昔…誰だったかは覚えていないけれど、自分達を守るために命を捨てた人がいた。

 だから、今度は自分の番。だけど……。

 最後に…小さな、聞こえるか聞こえないか分からない程に小さな声で、こう言った。

 

 

 

 

「……ごめんなさい……」

 

 

 

 

 手で掬った水のように、命が零れ落ちていくのが分かるけれど。

 死ぬということに、不思議と恐さを感じなかった。

 

 

 

 

 そして…彼女は、笑ったまま……逝った。

 

 

「…………」

 残された者達は、ただ呆然と…信じることが出来ないと…そんな様子で、動くことが出来なかった。

「…ったく、こういう時だけは、己の無力さってヤツをヒシヒシと感じるよなぁ…」

 背後から、聞こえるはずの無い声。命ある者がそこに居るという、気配。

 蒼眼の青年がハッとなって背後を振り返った。

 そこには…もう立ち上がるどころか、死んだと思っていたはずの金髪の青年が、アレク・オルトロスが立っていた。

 誰よりも深い傷を負って、もう既に血の一滴も流れ落ちない身でありながら、彼は自らの足でしっかりと身体を支え、立っていた。

「…冗談になってないんだがな…アレク、お前、ホントは人間じゃなくてバケモノだろ?」

「いや…俺は人間だよ…ただ、な…俺は「魔獣」だ。魔が付くとはいえ…獣だ」

 オルトロス…その名を持つのは、双頭の魔獣。

 双子の二つ名にして、仮初めの名字。

「手負いの獣ってのは…下手すりゃ、子の命が懸かった親より強いことがあるんだよ…」

「……確かに、な」

「…姉貴と愉快な仲間達の命運が懸かってるんだ、今、ここで戦う俺達の背には、な。分かったか? お前は…俺を…ただでさえ恐ろしい、誰かの命が懸かった状態+手負いという、最悪の状態にさせちまったってことがなぁ!!」

 言い終えるよりも先に、アレクが踏み込む。ありえない程に、強く…!!

 一歩踏み込む度に、バキバキという不協和音が聞こえてくる。死に掛けた身体ではありえない力強さで、彼は迫ってくる。

 敵を倒せと。死してなお、目前の敵に勝利せよと。ただ、その意思に突き動かされて。

 その死に絶えた四肢の神経を擬似的に繋ぎ、痛覚を遮断し、力の入り具合のみを伝えるのは、握り締めたブレスレットに込められたクレアの力。

 左腕、目、耳の機能は既にブレスレットの力で補うことは出来ないほどにボロボロだが。

 まだ完全に神経の途切れていない右半身と、ほとんど死に掛けている左足を動かすことぐらいは出来る。

 ブレスレットを握り締めた右手を大きく振りかぶったその一撃は、偽ることの無い限界を超えた一撃。

 筋繊維が切れ、右腕が自壊することを厭わない…たった一回限りの自爆にも似た切り札。

 

 

 

 

 ほんの一瞬だけ見えた、光景。

 

 

 

 

 比喩でも何でも無く、身体の左半分を失った青年が目前に立つ強大な存在と対峙している。

 

 顔は削れ、腕は千切れ飛び、足は骨だけとなり、腹に風穴は空き、壁に背を預けることでしか倒れるのを防げない身でありながら。

 

彼は神の半身に挑んだのだ。お前には、決して屈さない、と。言葉にせずとも、満身創痍の全身がそう語っている。

 

 これは、彼が半神半人となった日の光景。

 

 アレク・オルトロスは、例え神にも屈さない。例えどれほどの怪我を負っていようとも。

 

 この程度の怪我など、かつて神と対峙した時に比べて、どれほど軽いものか――――!!

 

 

 

 

 その黄金の瞳はそう語りかけてくるようで。

 その瞳は既に魔眼ではない。にも関わらず、蒼眼の青年の動きを止めるに十分な圧迫感を秘めている。

 蒼眼の青年は、決してアレクを侮っていたわけではない。考えるのが面倒なほどに長い付き合いだ。

 だけど、クレアとアレクが不定なる者に関して、全てを知っているわけではないのと同じように、彼も双子のことを全て知っているわけではない。

アレクが、蒼眼の青年の予想以上の闘気を持っていた。それは手負いとなり、追い詰められるのに比例して。

そして、ここで倒さねば姉とこの悲劇の主人公の戦いが不利になるという気負いが、更にその闘気を強くする。

その闘気こそが、彼を半神半人と成らせたもの。

それだけのことだけど、それを知らなかったから……動けない。

 人間の皮を被ったバケモノにしか思えないアレクに畏怖を覚えているから。

 極限まで追い詰められたが故に、それは今までに無いほどに強く……!

 

 

「うおおおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 

 その拳は、無防備な蒼眼の青年の胸に突き刺さり、背までぶち抜かんばかりの勢いでめり込んでいく。

 しかし、貫けない。凹み、骨が砕けていく感覚はある。

 だが、致命傷を与えることは出来ない。ブレスレットは死に掛けたアレクの身体を動かすのに精一杯で、神殺しの力まで与えてはくれない…。

 

 

 

 

 アレクが立ち上がり、蒼眼の青年が背を向けたその直後のことだった。

 壁に磔にされたカルーアの元へと、リリィは駆け寄っていた。

そして、笑ったまま死んでいる彼女に。

「…必ず仇は取る。だから、痛いだろうが…今だけは、我慢してくれ…!!」

 死者は痛みなど感じない。そんなこと分かっている。だけど、言わずには言われなかった。

 胸に突き刺さっている黒き剣を、残された左腕でしっかりと掴む。

 力など上手く入れられないが。まだ死後硬直は始まっていないためか、労せずにそれは抜ける。

 左手で持っているにも関わらず、右手で持っているかのように手に馴染んだ。

 神の力によって生み出された、影の剣なら神を殺せることも出来るはず。

 そう踏んでいたから、ギリギリまで避けようとしなかった。致命傷となる軌道の剣を奪い、残りは疾走に支障が出ない程度に受ける。

 だけど、自分の代わりに彼女がその身で全て受け止めてくれたから。

 

 ―必ず、仕留める。

 

 それが、今やれる唯一の償い。

 遠い昔の過ちと、今ここで死なせてしまった仲間への。

 短く呼吸をし、零れ落ちる命を燃やし尽くすように、残された力の全てで駆け出した。

 全身を蝕む苦痛も既に無く。幾多の傷から流れ出していた血も既に止まり。

死にかけているのではなく、既に死んでいるのかもしれないが。

それでも、倒れそうになっても、強引に前へと足を動かし、倒れさせる暇を、死が訪れる時を与えない。

 

 

「――――――――――――!!」

 

 

 自分が何と言ったのか、聞こえなかった。

 ただ一つ分かったのは。

 

「……やっぱり、人間って凄いな……」

 

 感心したような、蒼眼の青年の呟きと、左手に握り締めた黒き剣が、柔らかい何かを貫く嫌な感触だけだった。

 

 

 

 

「…お前達の勝ちだ。…楽しかったぞ」

 最後に、ニヤリと笑ってそう呟いて。蒼眼の青年の身体は粒子となって消えていく。

 その姿が完全に消え去るのを見届けて、アレクが呟いた。

「…お前、人間のこと知ってるようで知ってないからなぁ…」

 その言葉と共に、アレクの身体もグラリと崩れ落ちかける。

 今度という今度こそ、終わり。もう立ち上がるなんて出来ない。

 

 そう…倒れてしまったら。

 

 残った僅かな力と、気合だけで我が身を支える。

 朽ち果てるその時すら、立っているのだと言わんばかりに。

「大丈、夫…か…?」

「大丈夫と言えるわけないだろ、お互い…」

 必死に搾り出すかのように支えを失い、今にも倒れそうなリリィがアレクに声をかけるが…それはこっちの台詞だ、とアレクは苦笑いを浮かべようとした。

 創造主を失ったことで、影の剣は消えた。だから杖代わりにしたくても出来ないけれど、それは壁に磔にされたカルーアも解放されたということ。

 無理をして、首を僅かに動かして後ろを振り向く。磔にされていた彼女は、床に放り出されている。…決して、動く気配が無い。

 …誰もが傷だらけだった。かろうじて息のある二人も、もうすぐ息絶えるだろう。

 

 

 誰も助からなかった。

 

 

望んでいたのは、こんな結末ではない。

 

 

 せめて、生き残った者達が…これ以上、誰かが死なないですむこと。

 なのに、この場に残った者達は皆、死んでいるか、もうすぐ死ぬか。

「……どうにも、こっちだけじゃないみたいだな。…向こうの残存戦力、クレアとアプリコットぐらいだぜ…」

 神ならぬ身であろうとも、クレアとアレクは双子。一卵性双生児と違い、一つが二つに分かれたわけではないけれど。

 それでも共感性とでも言うべきか…互いに互いの考えることなど、遠く離れていようと伝わるらしい。

 それがとても強い思いであるのなら、特に。

 アレクの言葉を聞いて、力無く倒れこむ。もう身体を支えるほどの力なんて残されていないけど、まだ死にはしない。

 認めたくない、こんな現実なんて。『前の世界』の自分達より、酷いじゃないか…。

「…現実なんてそんなものだろ。努力しただけ報われない、真正面から立ち向かった奴に限って報われない。…でも、俺だって認めたくないな、こんな結末なんてさ」

 独り言のようにそう呟く。誰かに聞かせるためではなく、自分に言うように。

「…あぁ、ホントに…認めたくないよなぁ…」

 それっきり、アレクはもう何も言わなくなった。

 きっと…何かを話したところで、何も聞こえないだろうから。

 もう何も聞こえない、何も見えない…指先さえも、動かせない。

それでも、必死に顔を上げようと…遥か遠い場所を。友人が居るだろう戦場を見据えようとして。

「…………」

 何か言おうとしたのだけれど。そこで、彼女の意識は途切れた。

 

 

 …そう、永遠に…。

 

 

 

 

「…もう聞こえないけど…礼は言う。感謝するぜ」

 物言わぬ二つの骸に…出来る限り、穏やかに語りかける。

 不明瞭な、擦れた声が…彼も近いうちに死ぬことを教えている。

 それでも、せめて命尽きるまで。冷たい静寂がこの場を包むのだけでも防ごうと。

「俺一人だと、確実に負けてたからな…とはいえ…これじゃあ勝ったとも言えないよな…引き分けか」

 徐々に、音は小さくなっていく。

 一声発するだけでも、ボロボロの肺と喉、止まりかけた心臓を痛めつける。

「じゃあな…あの世でも仲良くしろよ。そう遠くないうちに…きっと…アイ、ツも…」

 言いたかったこと全てを告げると同時に、彼の身体から力が抜ける。

 重力に従い、床へと引き寄せられながら…ボロボロの身体は砂となっていく。

 完全に崩れ落ちた時、そこには…黒い服と、人型に積み上げられた砂だけが残った。

 

 

 

 

 

 

 

 ハッとなり、クレアが急に振り返った。振り返った先には何も見えない。だけど、彼女には見えていた。

 弟が息を引き取ったのが…。そして、誰も生きていないということが…。

 クレアが振り返るのに合わせて、赤眼の青年の表情が歪んだ。忌まわしげに、しかし、楽しそうに。

「…なぁ、クレア。お前の弟…何者だよ? 半神としての力を失ってなお、神に挑んで倒すなんて…アイツ、人類最強か?」

「かもねぇ…。アタシ以上にボロボロになって、それでも竜に喧嘩売ったのは後にも先にもアイツくらいだと思うよ。でも、アレク一人でアンタに勝ったわけじゃない。アレク一人だと、確実に負けてたから…リリィとカルーアには感謝してる。……もう、届かないけどね……」

 もう、届かないけど。

 その言葉の意味するところは…?

 分かりたくない、分からないほうがいい、分かっちゃいけない。

 どれだけ否定したところで、それは付き纏う。確信という名の悪夢が。

 そして、クレアの口から…決定的な言葉が吐き出される。

 

 

 

 

「…もう、アレクはいない。アニスも、ナノも、カルーアも、リリィも死んだ。零れ落ちていないのは、リコぐらいだから」

 

 

 

 

 そこで一回区切って、赤眼の青年を睨むように見ながら。

「……終わらせよう。いい加減、本気出す。皆を巻き込まないようにって思ってたし、人でありたかったけど…そんなこと、言ってられないし」

 残されたのは、たった一人。

 巻き込んでしまった責任を取ろうと、そう思っていたのに。

 その手から零れ落ちていくばかりで。だから、最後に残ったものを零したくない。

「なら、こっちもそれを真似させてもらおうか」

 

 

 

 

 クレアの言った言葉が、信じられなくて。でも、それが嘘でないと分かっている。

 どうして、このような状況で嘘を吐かねばならないか…だから、全て事実。

 だけど…それを認められるかどうかは、別で。

「…どうして…」

 口をついて出るのは、そればかり。

 どうして、このようなことになるのだろう。

 どうして、願っていた未来を掴むことが出来ないのだろう。

 大きすぎることを願っているわけじゃない。

 願ったのは、もう誰も死なないこと。取り返しの付かないほどに多くの人が亡くなったから、せめて、と思った。

 でも、それさえも届かない。惨劇を生き延びた友人達は、皆、死んだ。

 たった一人、生き残ってしまっていることへの罪悪感と悲しさと悔しさで、頭の中はグチャグチャで…。

 

 

 

 

 そこで、ブツリと音を立てて…彼女の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭の中で撃鉄を起こし、トリガーを引き絞った瞬間。

 それは予想以上の暴力で、瞬時にクレアを蝕んでいく。

 増水した河が、堤防を破って氾濫したような。

 ダムが崩壊して、溜まっていた水が勢いに任せて流れ出すように。

 鍛え続け、磨き続け、人として極限へと至った魂を持つ者でさえ、耐え切れるかどうか分からない圧倒的な暴力。

 例え極限へと至っていようと、双子として生まれたから。

 クレアという人間の器に宿る魂はあくまでも二つに分かれた内の一つ。

 人の身であるのならば、それを抑えることは出来る。

 しかし、人を捨てて、完全に竜へと至るのならば。

 

 

 それは、決して耐え切れない圧力。

 

 

 ―シャレになってないわ…すこーし予想外だったなぁ…。

 

 決して自惚れていた訳ではない。

 全力で抑えこめば、ギリギリだろうが何とかなる。

 それがクレアの予想。しかし、予想していた以上に、完全なる神の力は圧倒的だっただけ。

 

 ―マジで…ヤバイわ…。

 

 押し流れることを、押しつぶされるのに抗う力は、徐々に弱くなっていく。

 それまで彼女に呑み込まれていた自我の一部と化していた神が、目覚めようとしているのを感じながら。

 瞼が閉ざされようとした、その瞬間。

 

 ―情けないぞ、姉貴。

 

 聞こえるはずの無い、弟の声を聞いた。

 

 ―クレアは俺の姉貴だろ…もっとしっかりしろよ。

 

 ―俺が…こうして普通に立っていられるんだ。姉貴に出来ないこと無いだろ?

 

 ほんの僅かに残された視界を、その方角へと向ける。

 そこには…平然と、さも当たり前のように立つこの世界で、唯一人の肉親が。

 押し寄せる奔流に、短めに切った金髪やジャケットの裾が暴れていることを知らぬかのように。

 姉に向かい、呆れたような、信じているような笑みを浮かべていた。

 

 ―…そうだねぇ。アレクが、アタシに勝つなんて…ありえないからね。

 

 

ふっと息を吐いて。

 

 

足が、音を立てて崩壊していく。

 

 

グッと全身に力を巡らせて。

 

 

腕が、音を立てて崩壊していく。

 

 

やせ我慢で済まないほどに強く耐えながら。

 

 

心臓が、動きを止めて、砕け散る。

 

 

 決して表情には出さずに、クレアは背を伸ばし。

 

 

全てが崩壊していく。

 

 

 ―姉貴なんだし、弟が出来ることを…平然と出来ないとねぇ。

 

 

 

 

しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

その時、クレア・オルトロスは、そこに立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

全てを呑み込み、打ち消すかのような闇を切り裂く、黄金の輝き。

幾千の朝と夜を越えて、再び世に具現化した存在。

 

 

 

 

人の姿をした竜の咆哮が、銀河を震わせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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