最終話 再び始まる物語

 

 

 

 

 

 

「リコ、大丈夫? 生きてる?」

 クレアの声が、聞こえる。

 目を凝らしてその姿を探すが、見つからない。

「クレアさん、何処に居るんですか?」

「ん? あ、ごめんごめん…遠近感が違うからねぇ。ちょっと待って」

 そう言って、すぐにクレアは近くに現れた。通った場所に、金色の光の尾を残しながら。

 それから判断するに、結構離れた場所に居たようだ。

「いや、視力が良くなってて、望遠率を変えてたから…ちょっと距離が分からなかったよ…」

 ばつが悪そうな顔で、普段どおりの口調でそう言った後。

 表情を引き締めて、真面目な声色で問う。

「これから、どうする?」

 何もかも終わった。これ以上、戦う必要など無い。

 そして、何もかも失った。

 そもそも、世界の命運だのを賭けて戦っていたわけではないから。

 誰も、この戦いに巻き込まれて散っていった人達のことなんて省みないで。

 明日も、明後日も、一年後も、十年後も、変わらずに世界は続いていく。

 変わるのは、アプリコットだけ。彼女だけ、まるで世界から切り離されて、孤島に一人で取り残されてしまうかのように。

「…覚悟してたつもり、なんですけどね…やっぱり、ここまで辿り着くと…寂しいです」

 辿り着いた先は、一切の希望が無い地獄ではない。

 決して変わらずに、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を繰り返す現実。

 希望が無いのではなく、絶望が全て覆っているだけのこと。

 覚悟していた以上に、物語の終着地点は…辛い場所だった。

「皆…皆、もう居ない…んですよね? 何だか…悪い夢を見てるみたいで…現実感なんて、これっぽっちもなくて…」

 目に焼きついて離れない光景なのに。

 居なくなったと理解しているのに。

 なのに、振り向いた先に皆が居るような気がするのは、どうして…。

「そうだね…皆、何処にもいないよ。この世界の、何処にも…」

 腕組みをし、遠くを見つめながらクレアが呟く。

 終わらせることだけを考えて、今まで生きてきた。終わらせた後のことなど考えもしなかった。

 ここまで辿り着くのに、多くの犠牲を支払いながら、それでもやってきた。

 だから、今更アプリコット達だけ特別扱い、なんてするわけないのに。

 

 

 

 

「出撃前…いや、君らにどうするか聞いて回った時」

 

 

 脳裏に浮かんだやりとり。

 この戦いが終わって、全員生き延びれたのなら。

 

 望むのなら、何だってあげたっていい。

 

「…その時さ、アニスと約束したのよ。勝ったら、ご褒美あげるって。君らが願うこと…少しくらい無茶な願いでも、叶えてもいい」

 

 本当は、皆が生き延びたなら。だけれど。

 それでも、振り回され続けた彼女の願いくらい叶えてあげたって。

 これから先、希望の無い道を歩み続けるのだから…。

 

 そこまで考えて、自分自身に対して疑問を抱く。

 

 どうして、そこまで彼女の為に動こうとするのだろう、と。

 

 

 

 

 

 

「そんなこと、言われたって…」

 何を願えというのだ、何も無いこの世界で、何を…。

 望んでいたのはハッピーエンド。それ以上、誰も居なくならない終わり方。

 前と変わらない、皆がいる日々。例え、何時か大きな戦いに巻き込まれようと、それでも構わない。

 いや…一番良いのは、知り合いだけどここにいないこと。

 そうすれば、戦いなんかとは無縁で、けど友達で居られたのでは…。

「…無理、だよね。そんな、都合のいい状況なんて…」

 皆を結びつけた縁、それは紋章機を操る素質があったから。

 だから、皆と出会うということは、戦いに身を投じるのと同義。

 だけど、それでも…願うのは、そのこと。

 決して戻らぬ日々。

 死者は決して甦らない。例え全能たる存在の神であれ、それをすることは出来ないと言った。

 だから…それに対する未練を断ち切る為にも。

 アプリコットは静かに、クレアに告げる。

 

 

 

 

「もう一度、皆に会いたいです。誰かが欠けなくていい、誰も欠けない世界を歩んでみたい」

 

 

 

 

 クレアにキッパリと断られれば。

 未練を残すことなく、後悔しながらでも、唯一人生き延びた者として。

 残った人生を駆け抜けることに…。

 しかし…。

 

 

 

 

「ん、いいよ」

 

 

 

 

 あっけらかんと。なんでもないことのように、クレアは頷いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 頷いたところで、やっと気がついた。

 どうして、ここまで彼女に関わるのか、こんなことをしようとするのか。

「存在しない家族を重ねて見てたんだな…」

 『前の世界』には、ちゃんと家族は居た。父と母、弟に妹、祖父母…。

 だけど、『今の世界』には存在しない。『前の世界』の、たった二人の生き残りだから。

 双子の家族が、『今の世界』にも存在したのならば。双子がもう一組、この世界に存在することになる。

 そうなると、ドッペルゲンガー状態。同じ人間が二人いることになってしまう。

 故に、双子の血脈は『今の世界』では初めから存在しないことにした。

 例え家族が生きていた年代に故郷を訪れようと、家族はそこにはいない。

 だから、名字を変えた。異名であった双頭の魔獣の名を、自らの名字へと置き換えて。

 その名を持つ一族は、この世界のどこにも存在しないのだと刻み付けるために。

「最後だし…アタシのフルネーム…本当の名字、教えるね」

 クレアとアレクの、真の名字。それは…………。

「…クレア・ヴァンフィールド…」

 

 

 

 

 

 

「死んだ人は、生き返らない。なら、どうするか…それは至極簡単で…凄い我侭なことなんだけどね」

 一回だけ深呼吸をして。自分の内に、力を収束させる。

 止まることを、際限を知らずに、それは膨脹し続ける。

「どうすればいいか、分かるかな?」

「え……?」

 考えろ…どうすれば、その願いが叶うのか。

 死んだ者は決して甦らない。その絶対の理を捻じ曲げることなく、彼女の願いを叶えるには。

「…死んだ人を生き返らせることが出来ない、それはこの世界においてのこと。なら…?」

 この世界では、死んだ人を生き返らせることは出来ない。でも、それはあくまでこの世界…つまり、『今の世界』では出来ない。

 なら、『今の世界』で無ければいいこと…。そう、『今の世界』でなければいいのだから…。

「…まさか!?」

「そのまさか、だよ。だから、言ったじゃん。凄い我侭なことだって。ま、アタシと君の我侭だね…しかも、宇宙一の」

 それを貫き通すだけの資格を持っているわけではない。

 誰だって、親しい人と別れながら生きていく。それが永遠の別れだということもあるだろう。

 誰だって同じ。彼女だけ、特別なんてことはない。

 だから、これは我侭。他と比べようの無いほどに、スケールが大きな…。

「遠い昔に、誰かが願ったあの世界へ…、いや、今の君が願った世界へ」

 

 

 

 

 その言葉が終わるのと同時に。

 

 目を閉じていても、目が焼けてしまいそうなほどに眩い光が全てを埋め尽くした。

 

 それは、アプリコットの目だけではなく。今、生きている全ての生物の目を焼き尽くす。

 

 そして、それが…最後に見た光景となるのだった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世界に、君の幸せは無いけれど…君の物語は、きっとハッピーエンドで幕を閉じる…君が望んだ世界で」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから、誰もそれを見ることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 彼方へと…此処とは違う何処かへ飛び去る、金色の光を纏った竜を…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、寝てないか?」

 苛立っているわけではない、何の他意も無い、ただ心配している声。

 ハッとウェイターの少年が我に帰ると、手には伝票…ただし、まだ白紙だが。

 どうやら注文を取りに来て、うっかりと居眠りをしてしまったらしい。

「ごめんなさい!」

「まぁ、いいけどな…コーヒー二つ、頼む」

 金髪に同色の瞳、黒装束と目立つ容貌の青年が少年に向かい、オーダーを告げる。

「…ここで、それだけというのは、ある意味では嫌がらせじゃないか?」

 それに水を差したのは、向かいに座る…金髪の青年と変わらぬくらいに目立つ青年だった。

 銀髪、蒼と赤の左右色違いの瞳という、目立つのを通り越して少し怪しさを感じさせる。

 とはいえ、纏った雰囲気は悪人のそれではない。

 だから、誰も怪しい人を見る目ではなく…純粋な興味だけで、彼を見ていた。

 外気は鋭いほどに冷たく、曇天の空からは真っ白な雪がちらほらと落ちている。

 そのような日にテラス席に座るツワモノというのも、視線を集めるのを手伝っているのかもしれないが。

「別にいいだろ…もしかしたら、後で何か追加するかもしれないけど、今はそれだけだ」

「分かりました」

 走り書きのメモがされた伝票を手に、ウェイターの少年は慌しく広くは無い店内を走る。

 

 

 

 

 行き交う人々。飛び交う言葉。舞い降りる雪は、町並みを白く彩り。

 何処で生まれたのか、どんな風に育ったのか、今何をしているのか…何も分からない人々。

 何処にでもある光景。見慣れた雑踏の景色。

 一人の少女がそんな当たり前の光景に溶け込み…何をするわけでもなく、歩いている。

 見知らぬ人達とすれ違いながら、自分の時間を刻み続けている。

 今の自分の、時間を。

 もしかしたら、一分後にはこんな平穏な光景が失われるかもしれない。

 そんな不安を知らずに。しかし、そんな不安を抱かずに、知らずに生きていけるということは、何よりも幸せなことではないか。

 それを知ってしまえば、知る以前の日々に戻ることは叶わず。

 例え似たような光景を手に入れたとしても…その輝きは、何時か消える恐怖に怯えながらのもの。

 

 昨日と同じ今日を送り、今日と変わらぬ明日が来る。

 

 誰もがそう思いながら、生きている。

 しかし…これは確定された事象。

 

 すれ違う親子らしき二人組。

 普通に見れば、どのような関係なのだろう?と疑問に思う二人を…親子だろうと思ったのは、何故だろう。

「あれ? もしかして今の…」

 知らないはずのに、どうして気になるのだろう?

 立ち止まり、考えている間に…親子と思った二人組は人ごみの中へと消えていった。

 どうしようか…。今、追いかけないともう二度と会えない気がする。

 そう思って、彼女は来た道を戻る。

 知らないはずの人を探すために。

 

 

 

 

「ここは…何とも都合の良い世界だ。いや、『三度目の世界』は…か?」

 不意に金髪の青年が独り言のように呟いた。

 此処ではない何処かを…遠くて、決して届かない場所を。

「…そうだな。とんでもないことをやったものだ、お前の片割れは」

 呆れ混じりに、しかし楽しげに。向かいに座る銀髪の青年がそう言う。

 

 

 

 

「どうしよう…見失っちゃった…」

 人波に溺れるというほど、人が多いわけではないのだが。

 それでも、追うべき二人組を見失ってしまった。

 どうしようかと数秒ほど考えて…たまたま目が合った人に声をかけてようとするより先に、向こうから声をかけてきた。

 キョロキョロと辺りを見回しながら歩く、挙動不審の赤毛の…おそらく彼女より年上の少女。

 デジャ・ビュなのかもしれないが。

「…なぁ、以前どっかで会ったことないか?」

 そんな気が、した。今までに一度も会ったことのない人なのに。

「気のせい…だと思います。あの…私、人を探しているんですけど…」

 それぞれの特徴を伝えて、こんな人を見かけなかった?と。

「あ? 親子連れっぽい二人組で、猫みたいな子ども? わりぃが、そんな奴…悪い、俺はもう行く!!」

 途中で何かに気付いたらしく、顔が青ざめていき赤毛の少女は全速力で駆け出していった。

 

 

 

 

「確定した事象の置き換え。戦いに巻き込まれるという事象を、戦いに巻き込まれることは無いという事象に置き換えた…」

「世界を作り変えて…幾つもの確定事象を置き換えて…作り変えられた『三番目の世界』か…」

 周りには決して聞こえない、人間には聞き取ることが出来ないほどに小さな声で。

 彼らにしか分からない話をする。

 誰にも邪魔されることなく、自分たちにしか理解できない世界の真実を。

 今となっては、彼らしか知る由のないことを。

 

 

 

 

およそ十秒後、彼女の前には違う人間が立っていた。

 先ほどの赤毛とは対照的な、青髪の女性。帯剣しているから、きっと騎士なのだろう。

「ぜぇぜぇ…赤毛の女を見かけなかったか? 挙動不審の…怪しそうな奴を…」

 全速力で走っていたせいか、息が上がっている。

「え〜と…あなたの探している人かどうか分かりませんけど…そういった人が、向こうのほうへ行きましたけど?」

 それだけ聞くと、短く礼を言って再び走り出そうとして…その足がピタリと止まる。

「…気のせいかもしれないが…以前、どこかで会ったことがないか?」

 何処かで引っかかっている。

すれ違った親子の、変わった姿の子も。

ついさっき立ち去った赤毛の少女も。

今、目前に立つ青髪の女性も。

 何処かで、見た覚えがある気がするのに…でも、そんなことはないはずなのに。

 そして、誰か欠けている気がするのも…。

「探すの、手伝いましょうか?」

 もう一度会ってみたい。まだ見ぬ、欠けている誰かとも会ってみたい。

 そうすれば、この違和感の正体が分かると信じて。

 

 

 

 

「だけど…この世界は、夢だ」

 銀髪の青年が、静かに…しかしハッキリと言う。

「クレアの見ている夢だ…。世界を壊して、その残骸に残った思念を元に…クレアが見ている夢だ」

「そうだな…これも、その残骸を集めて作ったものだしな」

 金髪の青年は、バッグから一冊の本を取り出した。

 ハードカバーの小説程度のサイズの、古ぼけた本。

「かつての世界の残骸、かつてのアイツらの残骸たる思念、地獄を駆け抜けた時の記憶が書かれた、手記」

「ま、アイツらが自分で書いた本ってわけじゃないけどな…」

 そう言いながら、金髪の青年は。

「アレックス、この世界は確かにクレアの見ている夢だろうし、それはかつての世界の残骸だ。けど…」

 アレックスと呼んだ銀髪の青年を見るわけではなく、空を見上げながら…続ける。

「この世界しか知らない奴は、この世界で生きている奴らにとって…この夢は現実なんだ、変えようのない」

 それに。

 そう言って、再びアレックスの色の違う双眸を見ながら…諦めたような、からかうかのような、そんな調子で。

「今の俺達だって、クレアの見てる…夢の一部だぜ? 前の世界の残骸から生まれた存在だ」

 

 

 

 

「あの、すみませんけど…えーと」

 道行く人々を捕まえては、同じ質問を繰り返す。

 知らないという人もいれば、何かしらのことを知っている人もいる。

 そして、彼女もまた…何かしらのことを知っている人だった。

「つい先ほど、見かけましたわ〜どこかで見たような気がする人なので、ついじっと見続けてしまって〜」

 ゆっくりとした喋り方と雰囲気。長い金髪の、恐らく魔女らしき人。

 やっぱり会ったことのない人なのに、何処か…懐かしい。

「え〜と…赤毛の人ですか、それとも猫みたいな子ですか?」

「両方ですわ〜。一緒に走ってましたから〜」

「…え?」

 実は知り合いなのだろうか?

 疑問符を浮かべながらも、今は教えてくれた方に向かって。

「ありがとうございました。あの…」

「縁があったら、きっとまた会えますわ〜」

 ニッコリと、何の裏も無く…笑って言うから。

「はい!」

 同じように笑いながら、彼女は再び走り出す。

 

 

 

 

「…さぁて、行くか」

 ゆっくりと金髪の青年が立ち上がり、それに続くように銀髪の青年…アレックスも立ち上がる。

「そうだな。全く、夢を見ている本人が登場しないというのは、どうなんだ…」

「さぁな。けど、ここはアイツの夢であると同時に、再生された『第三の世界』でもあるんだ…神様は介入しないんじゃないのか?」

「なら、私とお前の立場はどうなる? まるっきりあの時と変わらないまま…片や半神半人、片や新しき神だぞ」

「だからクレアにお前も来いって言いに行くんだろ。何処行ったのか知らないけど。ま、探せば見つかるだろ、いずれは」

 どうせ時間なんて幾等でもあるからな。そう付け加えて。

「そうだな…名前を貰った礼ぐらいは、言わないと…」

「…俺の名前をいじったって由来が気に食わないけどな」

「文句があるなら、お前の片割れに言え。私は名前を貰っただけだ」

 ぶつくさと言いながら、二人の青年は何処かへ向かう。

 あてどの無い旅路を…誰かを探して。

 

 

 

 

 一人は街中を駆け抜ける。遠い日の、零れ落ちた記憶の欠片に突き動かされて。

 

 一人は街中を逃げる。背後からの追跡者から逃れるために。

 

 一人は好奇心のままに歩く。何かを願うのではなく、ただ興味のままに。

 

 一人は流されながら歩く。人波に流されながら、目指す場所も無く。

 

 一人は街中で追いかける。逃げ続ける逃走者を捕まえるために。

 

 

 それは、仕組まれた出会い。

 何も知らずに…ただ、自分の思うがままに行動していながら…一点に収束する。

 

 

 つい先ほどまで、二人の青年が居た場所。

 

 そこに居る、一人の少年を中心点として。

 

 

 

 

「……?」

 ふと、聞き覚えのある声が聞こえたような気がする。

 それも複数。視線を巡らし…視界に入った、名前を知らない、見知らぬ何人か。

 特徴があったとしても雑踏の中では、その一部として溶け込んでしまう人達なのに。

 ハッキリと見えた。不思議なくらいに…まるで、その人達を探していたかのように。

 それを不思議に感じながら…その人達を呼ぶ。

 いや、呼んでいるのではない。偶然に閃いた…当たっているかどうかも分からない名前を、ポツリポツリと彼は言っただけ。

 

 

 雑踏に掻き消えてしまうはずの、聞こえるはずのない声は、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………………………………………………………届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「「「……え?」」」」

 

 

 

 

 誰が呼んだのか、分からないはずなのに。

 

 

 皆、同じ方を振り向いて……。

 

 

 

 

 だけど、一人足りない。

 

 肝心な誰かが、居ない。

 

 埋まらない小さな空洞、気にしなければいいだろうに…どうしても気になってしまう、そんな感覚。

 

 誰が居ないのだろう。それが分からない。

 

 それに僅かな苛立ちを感じて、居ない誰かのことを考える。

 

 どんな人だったのか、思い出すことなど無くとも…。

 

 心の奥に引っかかっていた、一つの名前を口にする。

 

 その名の持ち主が、欠けた誰かなのかは分からない。

 

 それでも…彼は、懐かしい名前を呼んだ。

 

やはり、雑踏に掻き消されそうな…しかし、消されることのない声で。

 

 

 

 

 

 

「………え? ま、まさか…」

 

 

 

 

 

 

 彼女が振り返った、その時。

 

 不自然なほどに…人が少なくなったことに気付いた人は居たのだろうか。

 

 騒がしかった雑踏が、静まり返ったことに気付いた人は居たのだろうか。

 

 きっと、誰も気付いていなかっただろう。

 

 何故なら…皆、呆然と…ただ、互いに顔を見合わせていたのだから。

 

 周囲のことなど、決して…気にかけてなどいない。

 

 ぎこちない笑顔で、少年は「初めまして」と言おうとした。けれど、零れ落ちた言葉は…。

 

 

 

 

 

 

「久しぶり…元気だった?」

 

 

 

 

 

 

 そう、初めましてではない。何時、何処でかは分からないけれど、会っている。

 

 だから、これでいい…。

 

 

 

 

 きっと生涯知ることは無いだろう、それが仕組まれた出会いであるなどと。

 

 でも、それは知っても知らなくてもいいことで。

 

 

 

 

「これで、君の願い事は叶ったよね」

 そんな人達を、近くの建物の屋上から見下ろす人が一人。

 コートに付いたフードを目深に被り、顔は分からない。

 だから、表情も分からないのだけれど…その声色からして、きっと笑っているのだろう。

「君の願いは、皆と会いたい…誰も欠けない世界、だったからね。君たちにとって、これが現実」

 所詮、これは神の見る夢に過ぎないけれど。

「今ここに居るアタシにとっても現実だけどね…。分身というか現し身だからさ…」

 自らの夢の見る夢を、それによって構築された世界を眺める。

 過去二回の世界と、全く変わらない…そこに生きる人々、そこにある風景。

 しかし、世界にとっては小さな…それに関する人達にとっては大きな違いが、幾つか作られた。

「これから先の物語は、どうなるのかな…君らが望めば、相応の代償と共にきっと叶うから、ね…けど」

 願ったこと全てが叶う世界というわけではない。それでも…かつての世界に比べたら、とても優しい世界だから。

 澄み切った色の空を、その彼方をじっと見つめて。そこで眠り続ける自分の身体を思い浮かべながら。

「…ま、これから先は余計なお節介だよね…君らは、普通に出会っても良い友達になれるよ…きっと」

 そう言い切れない、僅かな不安さ。

 出会いこそが、全ての始まり。

 だから、その時の印象で今後の関係なども変わってゆくだろう。

「何れ、結果が出るか…じゃあ、戻ろうかな。あ、でも…その前に」

 右手に降ってきた雪を掴み…ふっと息を吹きかけてから、再び空へと放つ。

 それが、ゆらりゆらりと揺れながら落ちていくのを満足気に見た後。

 風に掻き消されるように…彼女の姿は、消えていった。

 後には何も残らず…彼女がそこに居たという証拠は、何も残らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空から落ち続ける雪に混じって、幾枚かの白い羽根が…風に揺られながら。

 

 

懐かしそうに…嬉しそうに、再会を喜ぶ者達の下へと、舞い降りていった…。

 

 

それは、新たな輝きを得た物語への…此処から始まる新章への祝福。

 

 

 

 

 

 

 

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